子どもだから、間違えることはあります。
注意されたり、怒られたりするのは当然のことだと思います。
子どもを怒ること自体が、悪いと言いたいわけではありません。
ただ、怒られているあいだ、
私の意見は聞き入れてもらえませんでした。
そして怒られたあとも、
家の中に、私をフォローしてくれる人はいませんでした。
なにかあったとき、まず母に怒られる。
母だからこそ、私は反論してしまう。
自分の思いを、そのままぶつけてしまう。
うまく伝えることも、聞き入れることもできず、
お互いに感情的になり、話は平行線のまま。
夜、父が帰ってくる。
「おい、ちょっとこい!」低い声で呼ばれる。
その声を聞いた瞬間、
私はいつも、覚悟を決めていた。
向かう足取りは、重く、ゆっくりと時間がすぎるように感じる。
そこからの記憶は、ところどころ曖昧だ。
ただひたすら、怒鳴られる。
「お前はおかしい」
「お前は間違っている」
「お前はダメだ」
1時間以上続くことも珍しくなかった。
一方で、私の話は、聞いてもらえない。
事情を説明しようとしても、
「言い訳だ」
「そんなの聞きたくない」
「は?」
言葉は、受け取られる前に切り捨てられる。
それでも、分かってもらいたくて話す。
泣きながらでも話す。
でも最後に待っているのは、
「ごちゃごちゃうるさい」
そして、平手打ち。
1発で終わることはない。
2発、3発。
もう恐怖を越えて、死が脳裏をよぎる。
「やめてよ」と言っても、止まらない。
母は止められない。
ただ見ているだけ。
正しいことを言っても、
論点がずれて、本題と関係ないことを主張しても、
話になっていないことを指摘しても、
結果は変わらない。
私の意見は、全否定され、
力で、つぶされた。
口の中が切れて、血が出る。
恐怖と痛みのなかで、
ただ耐えるしかなかった。
私は自分の意見を言うことが怖くなり、
次第に意見そのものを持たなくなっていった気がします。
「こう思う」という感覚が浮かんでも、
何を考えているんだ、どうせ意味なんてない、と自分で打ち消すようになりました。
意見することは危険で、
正しさよりも相手の力が優先されることがあり、
反論すれば状況はさらに悪くなる。
そして、家の中に味方はいない。
家は安心できる場所ではない。
そんな前提の中で、
物事の基準は「正しいかどうか」ではなく、
「怒られないかどうか」になっていきました。
怒られたうえで話を聞いてもらえない。
説明しようとすれば「言い訳」と切り捨てられ、最後は暴力で終わる。
その経験を繰り返すうちに、
「意見を言うよりも黙る方が安全だ」と考えるようになりました。
あの時間の中で、私は学びました。
意見することは、許されず、
意見すると、危険だということ。
正しさは、通らないということ。
力の前では、言葉は無力だということ。