常に比べられた、こども時代

私は、勉強もスポーツも、平均的で、それなりでした。
できないわけじゃない。でも、突出してできるわけでもない。

そんな私は、いつも弟と比べられていました。

比較される日々の中で、
特に心に刻まれている、2つのマラソン大会の話をしたいと思います。


マラソン大会①

マラソンが得意な弟と、あまり得意ではない私。
練習で一緒に走っても、弟に勝ったことは一度もありません。

負けたという単純な悔しさに加えて、弟に負けたという屈辱。
そして、それ以上に強かったのは、
「弟に負けた自分を、親に見られている」
という恥ずかしさ。

練習のたびに、弟に負けるダメな自分。
そんなふうに感じていました。

それでも、小学校6年間でいちばん頑張った年、私は8位でした。
得意ではない中での、精一杯の結果でした。

家に帰って報告すると、
母は「よかったね」と言いました。

悪い反応ではない。
でも、どこか薄い。

一方で、優勝した弟は何度も褒められていました。
夜帰ってきた父も同じでした。

弟の優勝は、本当にすごいことだと思います。

ただ、得意ではないことを必死に頑張った自分も、
少しくらいは見てほしかった。

マラソン大会②

父は順位に応じて欲しいものを買う、
いわば「評価システム」をつくりました。

1~10位はこれ。
11~20位はこれ。
21~30位はこれ。
31~以降も同じように。

順位が上がるほど、欲しいものは高価になる。

さらに、二人の順位に応じて“ボーナス”のようなものもありました。
二人とも上位だと高価なもの。逆に片方が良くても、もう片方が低ければ、
その低い順位帯のものになる。

結果は、私は40位台。
一方の弟は一桁順位。

弟は一番ほしかったモノを手にしました。
私は、正直あまり欲しくない、安価なもの。

そして弟は一桁順位だったのに、
私が40位台だったことで、
「二人に買ってもらえるもの(ボーナス)」
は低いランクになりました。

頑張りは関係ない。
順位がすべて。
結果がすべて。

そのとき感じたのは、悔しさだけではありません。
「自分は、人の価値を下げる存在なんだ」
そんな感覚でした。

そして私の40番台では頑張りを褒めてもらうこともありません。
「ダメな人間」「お荷物」
そんな言葉が、だけが自分の中に残りました。


今も私の中に残っているのは、
「頑張りや結果そのものには意味がない」
という感覚です。

大切なのは、
誰かより上かどうか。
結果を出しても、それを認めてもらえるかどうか。
そして、認められなければ意味がない。

それが、いつの間にか
自分自身を測る基準になっていきました。